エッセイ
ありのまま

幻想の世界の、フィルターのない現実

ブーゲンビリアとカフェ、ピンクの鎧戸のある白い家々が並ぶアラチャトゥの石畳の通り

ありのままの自分は、磨き上げた画像の中にはなく、本物のつながりと自己受容の静かな瞬間にある。

またしても私は、ヨーロッパで一番好きなカフェのひとつに腰を下ろしています。魅惑的な町、アラチャトゥにあるカフェです。かつてウィンドサーファーたちの聖域だったこの町では、水の上で風と踊ることだけが唯一の営みでした。遠浅の海は初心者を誘い、人々は恐れることなく、意気揚々とこのスポーツに飛び込んでいったものです。見るべきものといえば、ひと休みと素朴さを差し出してくれる、ささやかなカフェが数軒あるばかりでした。

それから十年、変化の風がこの場所を吹き抜けました。ブティックホテルや質の高いレストランが次々に現れ、ここは人気の観光地に変わりました。国内の観光客が押し寄せてきますが、その目当ては静けさでもウィンドサーフィンでもなく、自撮りをして、自分の華やかな人生の物語をデジタルの上に組み立てることです。彼らは練り歩き、束の間の「きらびやかな」瞬間に自分を収めては、この新たな流行スポットを訪れたことを自慢しようと躍起になっています。投稿はつくり込まれた喜びに満ちあふれ、一枚一枚の写真が、この「魔法のような」場所でいかに楽しんでいるか(ということになっている)を証明しているのです。

この変貌のなかに、私たちは人間の欲望の本質を見ます。見られたい、羨まれたい、自分より大きな何かの一部でありたい。けれども、その表面の下で、町の魂は、より素朴だった時代をささやいています。風の抱擁と波の踊りのなかに喜びがあった、あの頃のことを。

私はいつもの角のテーブルに座っています。絶え間なく流れていく人の群れを一望できる席です。カイピリーニャを丁寧につくってくれる、めったにない隠れ家のようなこのカフェは、私の聖域です。カクテルを味わいながら、視線が向かいのテーブルへと流れていきます。そこには美しい女の子が座っているのですが、どこか奇妙な姿に変わってしまっています。ありえない色合いのブロンドに染めた髪、落ち着かないほど青い瞳をつくるコンタクトレンズ、そして遺伝子実験の失敗作を思わせるほど膨らんだ唇。もしかしたらアヒルが関わっていたのかもしれません。美しさを求めた見当違いの試みは、裏目に出てしまったのです。友人がこう言います。「ストレートの男を全員ゲイにできるタイプの子だね」。皮肉と現実の重みを帯びて、その言葉が宙に漂います。彼女は数分おきにスマートフォンを確認し、神経質なほど正確に髪を直しています。犯人はソーシャルメディアだよ、と私は彼に言います。FaceTuneで加工され、フィルターをかけられた画像の迷宮に迷い込んだ若者たちは、美しさとは髪の色や瞳の色、唇のふくらみの問題なのだと信じ込むようになりました。彼らは幻想を追いかけ、そのアイデンティティはピクセルのなかに溶けていきます。自分たちの追い求めるものに潜む静かな悲劇に、気づかないままに。

それはまるで、ソーシャルメディアのチャレンジという体裁にきれいに包装された、神経衰弱のレシピのようです。

初めてBeRealのことを聞いたときのことを覚えています。友人の説明によれば、一日に一度、自分の生活の飾らない一瞬を友達と共有する、というのがその趣旨でした。通知が届いたら、二分以内に写真を投稿しなければなりません。私は言いました。「それは本当にひどいアイデアだと思う」。そして今。ある女の子が目を覚まし、シャワーを浴び、髪を整え、化粧をして、アイロンをかけたばかりのパジャマに着替え、それからベッドに潜り直します。そして自撮りをして、こう書き添えるのです。「起きたらこんな感じ」。友達はみんなその写真を見て、「私、起きたときは最悪の顔なのに!」と思います。ほかのアプリなら、少なくとも、時間をかけて好きなだけフィルターをかけ、修正し、自分の姿を演出することができます。でも、BeRealが十代の若者にかける途方もないプレッシャーを想像できるでしょうか。常に完璧に見えて、常に何か面白いことをしていなければならないなんて。それはまるで、ソーシャルメディアのチャレンジという体裁にきれいに包装された、神経衰弱のレシピのようです。

サンパウロへ向かう飛行機で、隣の席に18歳の若者が座りました。興味を覚えて、どんなソーシャルメディアを使っているのか尋ねてみました。Instagramだと彼は言いました。以前はBeRealも使っていたけれど、やめたとも。最初のころ、友達が十人ほどだったときは、みんな素直で、生活のなかの面白くて無防備な瞬間を分かち合っていたそうです。ところが友達が増えるにつれ、プラットフォームは自己宣伝と自慢の舞台へと姿を変え、容赦ない競争の空気を生み出していきました。BeRealやInstagramのようなアプリを使うと、自分は劣っているという気持ちになることが多い、と彼は打ち明けてくれました。大学に入ったばかりで、生活費のために夜と週末にアルバイトをしている彼の生活には、頻繁な外出や旅行、外食といった華やかさはありません。自分の人生は小さな敗北の連続で、周りの人たちの成功しているように見える人生と比べると、その差はあまりに鮮やかでした。理想化した自分の人生を見せなければというプレッシャーは圧倒的で、深い挫折感をいっそう際立たせていたのです。

私たちはよく、隣の芝生は青いと思い込み、人生の大半がありふれた瞬間でできていることを忘れてしまいます。現実の生活が見せてくれるのは、たいてい退屈な日常です。ベッドの中、職場、ジム、ゲームをしているとき、Netflixを見ているとき、そして仕事をしているとき。何かを無理やり「リアルで本物」にしようとすると、しばしば逆の結果を招きます。念のためにマスカラを塗り、ありふれた日常を、人工的な意味といううわべで覆い隠そうとしてしまうのです。

ソーシャルメディアは、浅薄さの海へと堕落してしまいました。ノートルダム大聖堂を恐ろしい炎が飲み込んだ、あの瞬間のことを思い出します。大聖堂の計り知れない歴史的な重みを思えば、深い悲しみを呼び起こす出来事でした。ところが、ほとんど間を置かず、私のFacebookのフィードは、大聖堂の前でポーズをとる友人たちの写真であふれかえりました。まるで炎が自画自賛のための絵になる背景を用意してくれたかのように、パリでの休暇を誇らしげに見せびらかしていたのです。

私たちの不安はそれほど深く、周りで世界が燃えていても意に介さず、自分の物語を引き立てるためならどんな機会にも飛びつくのでしょうか。

多くの人にとって、あの火災には感情的な重みがほとんどなく、単なる自己宣伝の機会、旅行や選び抜かれた体験を見せびらかすチャンスにすぎなかったことが明らかになりました。友人や見知らぬ人の投稿をスクロールしていると、私たちはしばしば、奇妙な断絶感と格闘している自分に気づきます。私たちは何になってしまったのでしょう。私たちの不安はそれほど深く、周りで世界が燃えていても意に介さず、自分の物語を引き立てるためならどんな機会にも飛びつくのでしょうか。そんなとき、そうした友情が本物なのかと疑わずにはいられません。自分が目にしているのは友人たちの人生ではなく、彼らの最も深い不安が歪んで映った姿なのではないか、と。

私は、共感と理解と誠実さに根ざした、別の人間のあり方を思い描いています。本当の自分をさらけ出し、他者のなかにある真実を認められるほど安心できたとき、私たちは同じように誠実な人々とつながることができます。心からの会話、コーヒーを囲んで分かち合う笑い。それらが、私たちの友情とコミュニティを織り上げる糸なのです。幸せも、愛も、居場所があるという感覚も、こうした素朴な瞬間のなかで見つかり、人生にたびたび影を落とす孤独に立ち向かう力になります。忘れてはいけません。本物らしさは、磨き上げて演出した写真のなかにあるのではなく、静かな瞬間の心からのつながりと、自分自身を受け入れることのなかにあるのだと。

ありふれた日常を祝い、自分の弱さを抱きしめることを選びましょう。オンラインでもオフラインでも、本当の自分を見せると決めたとき、私たちは比較と浅薄さと利己心の鎖から自由になれます。そのときはじめて、私たちが共有する人間らしさの深い美しさを味わい始めることができるのです。共に歩む旅路のなかで、共に重ねた経験を通して、私たちは自分の人生に宿る魔法を再び見つけ出せるかもしれません。抱きしめられることを待ち望んでいる、フィルターのない現実を。そしてその抱擁のなかで、私たちは本当の意味で生き生きと輝くのです。

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